自分と繋がり自分の人生を生きるためのブログ

元母子共依存者・AC・愛着トラウマ持ちの「ただブログを書く人」の日記と考察。内面世界の話や気づいたこと・考えたことを書きます。

落ち込んだ時こそ自分と向き合うチャンスな気がする話

今日は久しぶりに落ち込んだ。

きっかけは特にないのだけれど、たまにこういうことがある。

 

人は怖い。人に嫌われるのも傷つけられるのも怖い。
愛着がほとんどない。本当の意味で愛された経験がほとんどないからだ。
心の中に安心安全が無いから、自分が存在しているだけで価値があると信じきれない。
存在そのものを愛されてきた人たちに対して嫉妬や羨望の感情がある。

 

隣の芝生は青く見えるとの言葉通り、人と自分を比べてなぜか人の方が優れていると思い込んでいる。
自分なんかダメだと思い込んでいる。

 

そして、自分の中で不幸自慢が始まる。
自分は親に愛されてこなかっただの、トラウマがあるだの、だからうまくいかないだの。
あいつらに俺の気持なんかわからない!と。

 

今までずっとそういう感じで生きてきた。
自分で勝手に被害者・犠牲者になっていた。
人に認められるため、人から愛されるために頑張った。
そうしないと人と親密になれないし、愛されないと思っていた。

 

人は怖い。今はそう思って人を避けることで、自分を守っている。
人と付き合えば本当に嫌われる経験もするかもしれないし、それが怖いので、守っているのだ。
でも実は私は人と繋がりたいのだ。しかも、温かい感情で繋がりたいのだ。

 

今はその葛藤の真っ最中なのだと思う。
今までのように人を避け続けることで自分を守る道を選ぶか、それとも人から傷つけられる可能性を覚悟して、人と繋がる道を選ぶか。

10年後を考えれば、答えは出ている。人を避け続ければ、人生がどんどん収束して、人や社会を恨む未来が待っている気がする。
だから覚悟を決めようと思う。


話は変わるが、昨日と今日で、自分はまだ深層心理では人のために頑張っていたことがわかった。
親に認められるためとか、過去自分を捨てた人間達を見返すためとかで頑張っていたことに気付いた。
表面的には、もう執着してないと思っていた。でも潜在意識はガッツリ、過去の出来事や人間関係に執着していた。

 

それに気づいて、「自分は一体何をやっているんだろう…」と、とても虚しくなった。
自分は一体何のために生きているのか、何のために努力をしているのか、自分が生きている意味はあるのか。
とても虚しいけど、昔の懐かしい感覚だった。

 

でも、もう過去への執着はやめたい。自分のために生きたいのだ。
自分と繋がって、これからは生きたい。

 

自分のために生きると言っても、これまで本当の意味でそんなことはやったことがないので、よくわからない。
ここに、生きる意味があるのかもしれない。
わからないことがわかるようになる。できないことができるようになる。
これが喜びをもたらすことはわかる。

 

少しスピった話になるが、人間は恐らく、経験をするために生まれてきている。
この世界は、宇宙や人間の一生を超えた大きな流れがあって、魂とも呼べるものが人間を経験しに来ているのだと思う。
魂は何回も何回も人間をやって、様々なことを経験する。そして大元へ帰っていく。そんな感じがしている。
私は多分、今回の人生で人を愛することや、自分と繋がって幸せになる感覚を得るために生まれてきたのだろうな…。

 

脱線した。わけのわからないスピった話は置いておいて…。

 

今日はそんな感じで、自分が本当の意味でこれからどういう人生を送りたいのかというのがぼやけてしまい、一日中眠くてネガティブな気持だった。
とにかく虚しいし、悲しいし、寂しい。
でも、こういう時はチャンスだ。こういう時に、自分が行動するうえでの動機が見えるのだ。

 

そして今回は、自分の執着に気付いた。執着から、今まで自分が頑張っていることに気付いた。
だからこの数日間は体が重かったのだと思った。人を見返したい、人に認められたいという他人軸で頑張っていたのだ。
しかも表面上は自分のために頑張っていると勘違いしていたのだ。

 

それを感じて、これからの方針が決まった。

 

①過去の人や出来事への執着は捨てたい(でも人間だからいきなりは無理、徐々に捨てたい)
②自分から人に近づいて豊かな人間関係を目指したい(そのためにセラピー等を受けて過去のトラウマを癒す)
③自分はどんな人生を送りたいのか、どんな人と出会いたいのか、改めて考える(これも徐々に)

 

これから私は、自分が本当はどうしたいのか、自分で決めて自分の人生を歩んでいきたい。
そのために決めたことは、死なないことと、自分から逃げないということだ。

自分がどういう生き方をしたいのか、今まであまり考えてこなかったが徐々に慣れるようにする。

 

そのために過去への執着(もしもあの時ああしていたらとか、あの時別れたあの人と数年後再開してもう一度認められたいとかいう思い)を手放す。
そして、過去のトラウマを少しずつ薄くして、自分から付き合いたい人を選んでいきたい。
自分が本当に望んでいる生活や豊かさ、幸せを手に入れるために自問自答しながら、日々を生きていこうと思う。

そう思ったら、少し気力が湧いてきた。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。
またお会いしましょう。では。

自分と繋がるための第一歩

こんにちは、皆様いかがお過ごしでしょうか。
ただブログを書く人です。

私は先日セラピーを受けてきました。

セラピストさんの誘導で、自分の圧倒的なトラウマと向き合いました。

・自分は思った以上に自分の本当の感情を感じないようにしていたこと、つらい思いを笑ったり茶化したりして誤魔化していたこと。
・自分が現在両親に抱いている怒りや憎しみはすり替えであり、その下には絶対的な悲しみと絶望が眠っていたこと。
・人に嫌われること、見捨てられることは自分にとって「死の恐怖・絶対的な恐怖」だったこと。その感覚は親との関係から来ていること。
・「自分はこの世にいる価値あるのだろうか」「生きている意味はあるんだろうか」という根源的な無価値観を持っていたこと。

これらに気づきました。

こういう圧倒的なトラウマは、プロの力を借りないと向き合えないと実感しました。

私自身、子供の頃から内側の自分と自己対話を重ねてきたつもりだったので、自分の内面を掘るのは得意だと思ってきました。

しかし、それは慢心でしたね。
根源的な恐怖、自分が絶対的に見たくないものというのは、脳が巧みに見せないようにしています。

何故なら、それを見て感じてしまうと、生き死にの問題になってくるからです。
それを感じてしまうと、絶望のあまり生きる気力がなくなって死んでしまうかもしれない。
自暴自棄になって発狂してなりふりかまわず周りに牙をむくかもしれない。

自分を崩さないように、脳はバランスを取ろうとして、そうした圧倒的な絶望感や恐怖と向き合わないように操作します。
他の感情にすり替えたり、面倒な気を起こさせて考えさせないようにしたり、お酒や関係のないことに逃がしたりするのです。

怒りや恐怖には圧倒的なパワーがあります。
自分一人で向き合おうとしても、脳がブロックしてすり替えたり、強烈な怒りや恐怖に引っ張られたりしてしまい、非常に難しいです。
私は今まで何度も一人で向き合ってきましたが、根源的な無価値観や自己否定には全く気づけませんでした。

人と一緒に向き合う場合も、こうした感情の扱いに慣れているセラピストやカウンセラーと一緒でなければなりません。
慣れていないセラピストやカウンセラーでは、こうした強い感情に一緒に飲まれてしまい、セラピーどころではなくなるからです。

根源的な無価値観や、見捨てられ不安、自己否定感、怒り・憎しみなどの感情、トラウマを絶対に甘く見てはいけません。
過去の親子関係で植え付けられた呪い・トラウマを、絶対に甘く見てはなりません。
こうしたトラウマは「感覚」として体が覚えています。
自分が最も苦手なものを想像してください(虫でも熊でも高い場所でもなんでもいいです)。

自動反応で飛びのいたり、体が硬直したり、足がすくんだりするはずです。
トラウマの反応というのはこれと似た感覚があります。
目の前の人は親ではないし、自分はもう子供ではないし、むしろこの人は自分を愛してくれている。
頭ではわかっていても、体がどうしても反応して、止められないのです。

私が人間関係を壊すときは、こうした自動反応がどんどん出て、関係に影が差し、頭では止めたいと思っているのについ人を怒らせる発言をしたり、恐怖で相手を遠ざけたりする反応をしてしまう。
人からそうしたことを指摘されると、見捨てられる恐怖のあまり思考停止するか、笑ってごまかそうとしてさらに相手を怒らせる。
体が自動反応をして人間関係を壊していくのをもがきながら見ているという感覚なのです。
そして、こうした「失敗」をしてしまう自分をますます嫌いになっていたのです。

脱線しました。こうしたトラウマはひとりで向き合い、改善できるとは思わない方がいいです。プロの手を頼った方がいいです。
確かにお金はかかりますし、私みたいに派遣の収入ではカツカツですけど、お金には代えられないなと、セラピーを受けて思いました。

セラピーを受けて、幼少の頃を思い出していくと、ある一つの事実を認めざるを得ませんでした。

それは、「私は両親から存在そのものを愛されていなかった」ということです。

表面上は愛されていました。
しかしそれは条件付きの愛でした。

すなわち、親の都合のいい子でいれば、存在することを許されるが、親を煩わせるような子だったら、邪魔だからいらない。
ということです。

そして親は無意識に、そうした態度を取り続けました。
母親は父親の愚痴を私に聞かせ続けましたし、父親は私に、「お母さんはお前が大好きだから、面倒よろしくな」という感じで、実際に言葉で言われたこともあります。
逆に、私が両親の望まない欲求や感情を出すと、無視していなくなったり、明確に拒絶したりしたのでした。

私は利用されていたのです。

そしてその利用を、私は30年以上にわたって受け入れて、親とは共依存状態で生きてきました。

私が両親からの利用を受け入れていたのは、そうすることによって、私自身の無価値観から目をそらすことができていたからです。

母親や父親の役に立っている、存在を認めてもらえているという感覚が私には心地よかったのです。
結局私も、両親から認めてもらいたかったのでした。両親から愛されたかったのです。
だから苦しくても、利用されている・軽く扱われていると無意識にわかっていても、両親から離れることができなかったのです。

セラピーを通して、深く抑圧していた感情の蓋が少し開きました。

私は、「自分が生きている意味なんてないんじゃないか」という根源的な自己否定感に直面することに、大きな大きな恐怖を抱いていました。
そして、「お前は生きているだけでいい、どんなお前でも愛してるよ」という無条件の愛を、親からもらいたかったのです。

だから、両親のもとにいて両親の鎹になることで、恐怖から目をそらしつつ、いつか両親は自分に無条件の愛を注いでくれると心の底で期待していたのでした。

でも、無条件の愛はもう両親からはもらえないんです。
70近い両親に「俺を愛せ!」と言ったところで、無理なんです。
もうもらえないんです。

それはそれは、深い悲しみと絶望でした。
セラピー中でしたが、子供の頃に戻ったような感覚で、つい泣いてしまいました。

この感情に気付いたところで、今回のセラピーは終わりました。

想像以上に深い悲しみ、恐怖、絶望を持って今まで生きてきたんだということがわかりました。
そして、その感覚と向き合わないように、自分の感覚や感情にアクセスする回路を切って生きてきました。
本当の感情を感じないように生きてきました。

友人から、「目が笑ってない」、「本当に楽しんでる?」、「無機質」とよく言われていましたが、その意味がわかった気がします。

次回から、少しずつ癒しのフェイズに入ります。

私は、これからの人生は自分と繋がって、自分の感覚を大切に生きていきたいと思っています。
その準備は整いました。これから過去を受け入れて、乗り越えようと思っています。

長文失礼しました。それではまた、お会いしましょう。では!

あらためて、初めまして。

こんにちは、はじめまして。
「ただブログを書く人」と申します。

特に名前は決めてないので、かなり適当なニックネームで失礼します。

4年ぶりの記事更新なので、あらためて初めましてという感じですね。

4年前はコーチングを受けていて、そのアウトプット用としてこのブログを開設していました。木島修平と名乗ってたんですね。すっかり忘れていました笑

 

今日は心機一転初めての記事ということで、自己紹介をさせていただきます。
私は2023年現在、38歳の独身男で、派遣社員をしています。

私はいわゆるアダルトチルドレン愛着障害で、これまで生きることについてさまざまな困難を感じてきました。

そうした問題の根本原因がわからず、人生の様々な場面で問題を起こしてきました。

問題を起こす場面は基本的に人間関係で、そこから派生して仕事面・収入面・生活面・健康面などありとあらゆる問題を起こしてきました。

そして、昨年付き合っていた彼女から徹底的に振られたことをきっかけに大きな喪失感と絶望を体験して、自分の中の問題に色々と気づきました。
そこから心理に興味を持って勉強し出し、自分はACや愛着障害ではないかと思い至りました。

医師の診断はないので何とも言えませんが、境界性パーソナリティー障害なのかなとも思っています。

振り返ると私は37年間ほぼ実家暮らしで、母親とは母子共依存の関係にありました。

そのためまずは母親と物理的な距離をとると決意して、2023年1月に実家を出て一人暮らしを始めました。

この記事を書いている今は一人暮らしを始めてちょうど3か月経ち、だいぶ慣れてきました。

現在はアダルトチルドレン愛着障害を克服するためのカウンセリングやセラピーを受けていて、自分の人生を取り戻すため、毎日を生きています。

このブログでは今のリアルな自分を残し、同じような問題を抱えている人のサンプルになればいいかなと考えて再開しました。

 

自己紹介なので、私のことをもう少し書きましょうか。

私は明確な虐待家庭で育ったわけではありませんが、幼少の頃から条件付きの愛を受けて育ちました。
特に母親の影響を強く受けました。
私の母親はわかりにくいタイプの毒親だったと思います。

幼少の頃は母親の望む態度をとれば可愛がられましたが、母親と反対のことを言ったりやったりすると、母親はムスッとして何も言わずに拒絶しました。
そういうことが何度もあり、「どうせ人は自分の意見なんか聞いてくれない」、「人が望む自分でなければ存在価値はない」という前提を自分の中で作り、無意識にその前提に従って人と関わってきました。

そのため私は人前で自分の意志を出すことに絶大な恐怖を感じていました。ただの恐怖ではなく、絶大な恐怖です。
だから大人になっても、人と関わるときは人から嫌われないことが最優先となり、普段はニコニコ人に合わせて言いたいことも言いませんでした。
人と意見が違ってもひたすら合わせ、勝手に自分の中で窮屈を感じて怒りをためて、最後爆発させて人間関係をぶっ壊したり、仕事を急に辞めたりしてきました。
人と親密になるということは、自分を抑えて相手に合わせなければならないという無意識の土台がありました。
人と関わりたいという気持ちはありましたが、人と親密になるととても苦しい。
今ではその原因がわかりますが、昔はなんで自分がそういう反応をしてしまうのか全く分からず、そういう自分が大嫌い。常にそういう感覚がありました。

20代とか、若い時はそれでもよかったんです。
仕事がダメでも次にいけばいい、人間関係がぶち壊れても新しくやればいいと思っていました。
その時はもちろん、愛着障害とかACとかの知識もなかったわけですから、自分の無意識の前提にも気づけなかったんです。
人と接するとなぜか思考停止してしまい、人の言いなりになっている自分もいましたが、それも当たり前のことだと思っていました。
だから自分と向き合っていたつもりで、浅かったし、人生のことも考えているようで考えていなかったし、そもそもズレた前提で考えていたので、同じ問題を何度も繰り返しました。
途中うまくいっても、最後には必ず自分から投げ出すのでした。

その度に自分の中の思い込みは強化され、母親からも相変わらず「お前はダメだ、(私が面倒見てあげるから)もうずっと実家にいなさい」というメッセージを受け取り続けました。
その結果、実家暮らしの30代中盤には「こんな自分でこの先どうやって生きていけばいいんだろうか…もう何もしないで人生終わろうか」と思っていました。
自己否定がどんどん強化されていました。

今思うに、母親自身が自己不全感を抱えていて、人の世話をすることに存在価値を見出すような人だったんだと思います。
だから私を「できない人」に仕立てて世話を焼くことで、自分の価値を感じたかったんでしょう。

私も私で、いつまでもダメな自分でいることで衣食住が提供されるので、それはそれで莫大なメリットを無意識に享受していました。
完全に母子共依存状態になっていました。

昔から色々と人間関係や仕事でうまくいかなかったのですが、昨年彼女ができ、人から愛されることと人を愛することの心地よさを学びました。

しかし、私の中の自己否定の感覚が強すぎて、最後は全てを投げ出して逃げてしまい、それが原因で徹底的に振られました。

その時大きな絶望の感情を経験しました。

「自分の人生は本当にこれでいいのか?」と思いました。
自分が過去やってきた行いを思い返しました。

この年になっても自分の本質的な問題は全く解決していなかったし、むしろ強化されている。
無意識の奥に奥に追いやっていた闇の部分や弱い部分を認めざるを得なくなってしまった。
人を巻き込んで、傷つけて、自分は一体何をやっているんだと思いました。
これからも人や場面を変えてこんなことを繰り返し続けるのだろうか、と思いました。

ただその時に自分の中の本質的な問題に気づいたんです。
それが、人間関係の前提とか、強すぎる自己否定とか、色々な問題です。

それと同時に、自分はやっぱり人と関わりたいんだな、しかも、対等な信頼関係や愛情という温かい関係で関わりたいんだなと、そういう欲求にも気づきました。

ではどうするか。選択の必要が生まれました。

母子共依存をこのまま続けてダメな自分をやり続け、10年後引きこもりになり、人を恨み世を恨み、社会を恨み生きるのか。
それとも、今からでも自分の中の問題・課題に向き合って、過去を受け入れながらも責任を持って自分の人生を引き受けるのか。

私は後者を選びました。
そしてACを克服するためにそれに特化したカウンセリングを受けつつ実家を出て一人暮らしを始め、今こうしているというわけです。

これから、自分の軸を作っていくため、考えていることや気づいたことなどをしゃべってこのブログにアップしていこうと思います。
基本的に自分のために喋っている感じになりますけれども、もしお役に立てるのであれば幸いです。

あと、カラオケが趣味なので、「カラオケ歌うだけの人」というYouTubeチャンネルも作り、そこでカラオケ歌ってみた音声も出そうかなと思ってます。

現在歯の矯正中で、器具が入って喋りづらいので、だいぶ先になりそうですが…。

そういうことなので、長くなりましたが、これから少しずつ記事をアップしていきます。

よろしくお願いします。

 

なお、4年前のコーチングの記事は恥ずかしいですが、過去と今の対比になって面白いので残しておこうと思います笑

それではまたお会いしましょう。ありがとうございました。

エネルギー枯渇問題が解決

こんばんは、今日も書いていきます。
ここ数日間のエネルギー枯渇問題がようやく解決しました。

長かった。
今日からまたフルに動けます。

ここから学んだことは非常に多く、お金を稼ぐことに対するメンタルブロックの強さを再確認しました。

どうしても、自分が人からお金を取れるのだろうかみたいな思考になってしまうのです。

これを打ち破れない限り、お金を稼ぐことはできない。又は非常に時間がかかるでしょう。

まだまだ私の中には隠された錠が埋まっているかもしれない。しかし今回の体験があったおかげで、その強大さを認識しました。

強大さを認識すれば、さらに全力で対応しようと言う気持ちになります。打ち破れないのならば、うまく味方につけられないかと、工夫もできます。

真の戦いはこれから。
お金の問題を必ず解決し、ゴールを達成したいと思います。

まだまだ課題は多いですが、焦らず騒がず、進めてまいります。今日は短いですが、それではまた!

エネルギー枯渇問題の解決法が見つかった

こんにちは、今日も書いていきます。
ここ数日、エネルギー枯渇問題に悩んでまいりましたが、ようやく解決しそうです。
自分の中にエネルギーが満ちてくるのを感じています。

さて、ここからが問題で、今後エネルギーが枯渇するようなことにならないように、対策を練っておかねばなりません。
今日はそこら辺を、今回の体験で得た学びと言う意味で書いていきたいと思います。
タダでは起き上がらない!

今回のエネルギー枯渇が起こった原因を分析する

今回、エネルギー枯渇が起こってしまいましたが、約1週間と、大変長引きました。
大変苦しい日々でした。
しかし、それだけに得た気づきも大きかったです。

まず、お金を稼ぐ必要性という観点で、私自身大きな弱点を抱えています。
それは、欲が少ないということ。
外食もほぼしませんし、女も買いませんし、彼女いませんし、もちろん子供もいません。
自分からは美味いものを食いたいという欲もそれほど強くなく、欲が薄いのです。
その代わり、勉強をして知識を身につけたり、本を読んだりなど、その方面の欲求はあります。

つまり、あまりお金がかからないのです。
月に15万もあれば生活できる自信があります。

もし全てのゴールを諦めて、現状維持のまま人生を終わらせたいのならそれでもいいでしょう。
しかし、私にはゴールが複数あり、そのすべてである程度のお金は必要です。
さらに今100万強の借金がある状態であり一刻も早く返したい。

そんな思いで色々とビジネスしているのですが、どうも継続性に難がある。
この1週間、本当に苦しかった。無意識の抵抗と諦められない気持ち。
色々と複雑に絡み合い、本当に辛かったです。
体が動かず起き上がれないレベル。

お金を稼ぐモチベーションはどこから生まれるのか。

私の場合、お金は月15万もあればいいと従来の無意識が判断しているわけですから、それ以上を稼ごうとすると、どうしても「抵抗」が出てきます。
コーチング的に考えれば、この月収の基準値(コンフォートゾーン)をうまくずらし、ずらした先に臨場感を持っていくことで無意識を味方につけるという方法をとります。
そのずらし方が分からなかった。
目の前の作業が全然継続的にできない。

これをやればゴール達成に近づくということが分かっているにもかかわらず。
目の前に稼ぐ可能性が転がっているのに、なぜかできない。
この問題を解決し、エネルギー切れを起こさないようにする工夫をする必要があります。

ライミングを仕掛けるために

ライミングは、報酬を予想すると脳内にドーパミンが流れ、行動を促す効果のことです。
例えば、人が食事をするのは、生存の本能を満たした時に快感が訪れることを知っており、その快感を想起するだけでも脳内にドーパミンが流れ、行動を促すからです。

私のゴールは抽象度の高いものがほとんどです。
そして、抽象度の低い、「うまい飯を食いたい」などはゴールとして不適切と判断していました。

しかし今回、お金を稼ぐというエネルギーを得るために、こうした抽象度の低いゴールを描くことも大切だと強く感じました。
というのは、抽象度の高いゴールはお金が関係ないものが多く(お金じゃない価値)、どうしてもお金を稼ぐという即物的な欲求に繋がりにくい。
そうすると、お金を稼ぐという事が「余計なこと」と無意識が判断し、プライミングが働きにくいと感じます。

逆に、「うまい飯を食いたい」「いい服を着たい」「いいところに住みたい」「酒を飲みたい」などの即物的な抽象度の低い欲求は、お金があれば手に入るものがほとんど。
つまり、お金を稼ぐという欲求にダイレクトにつながっていく可能性が高い。

まだ私のなかでは仮説の段階であり、私ができたからと言って、あなたに合っているという保証もありませんが、今後しばらくは、抽象度の高いゴールと共に、抽象度の低いゴールもイメージしていきたいと思います。
そこでお金を稼ぐエネルギーがどう変わるか。楽しみでもありますね。

今後もこうして、実況をしていきますので、お楽しみに!

エネルギー枯渇問題が治らない

こんにちは、今日も書いていきます。
数日前から発症しているエネルギー枯渇が治らない。

無気力状態で今日は14時間以上寝てしまった。
派遣の仕事にもようやく起きて行った状態。

このうつ症状、どうにかならんかな…

ドーパミンが全く分泌されていない。
無気力状態…。

そうこうしているうちに取り巻く環境は変わっていく。しかし動けない。

非常に焦る。
自分を責めそうになることを必死に抑える。
マイナスセルフトークだけはヤバイ。

「なんでこんなに無気力に生まれちまったんだ」
「使えねえ体だ」
「なんでいつもこうなんだ」
「生きることにもはや意味はない」

など、ヤバイセルフトークが発生。
エフィカシーが極限まで下がりそう。

…と、現在かなり危険な状態です。
とりあえず今までに身につけた知識をフル活用し、なんとか倒れず守っています。

成功する上で一番のポイントは自己コントロールだということを学んでいます。

てか、エフィカシーが下がりそうでヤバイ。
ゴールもよくわからなくなっている。

この危険な無気力とそれに焦る状態はいつまで続くのだろうか。
ブログ毎日更新だけは何とか守った。
明日も書きます。

最近日記ブログと化してきた(笑)

こんにちは、今日も書いていきます。

なんというか、壮大な目的をもって始めたこのブログも、最近は日記ブログと化して参りました(笑)

決してネタ切れという訳ではなく、自分を上手くコントロールできないため、時間が捻出できません。

今並行で4つぐらいの取り組みをしており、それすらも回っていない状態。

 

なんというか、睡眠のコントロール、作業開始のコントロール、余暇のコントロール、感情のコントロール、全てがダメダメであり、今が一番きつい状態かも。

ダメダメとはいいながら、過去どの時点よりうまくコントロールできている自信はありますが、でも、全然ダメ。結果として回らないのであれば意味が無い。

これは毎日試行錯誤しており、なんとか自分なりのリズムを身につけたいところではあります。

ここをコントロールできなければできるものもできませんしね。

 

最近は明確なゴールというものが特に浮かばなくなりました。

コーチング的にはどうなのでしょうかね。

無意識に刷り込まれた状態なのでしょうか…。

ゴールを練る時間も復活させないと。

最近全然やってないので…。

というか、寝すぎ。睡眠のコントロールが全くできず暴走状態。

4月から派遣の仕事が昼間になる為、上手くリズムを合わせます。

 

あと、現状側とゴール側の自分が常に反対方向に引っ張っているような感じで、何をしていても居心地が悪い(笑)

寝てても居心地が悪いし、本を読んでいても居心地が悪いし…。

何か作業している時が一番落ち着いているかな。

作業に取り掛かれさえすればOKなのですが、取り掛かるのも億劫という…。

 

しかしまあ、色々と問題が多い。

ゴールの為にやらねばならぬことがあるうえ、自分の中でも抵抗が発生しており、精神的によろしくありませんね最近は。

このブログも何度辞めようと思ったことか(笑)。

しかし、日記を書くというのは自分の気持ちを整理する上で役に立つかなと思い、こうして続けています。

このブログは私がゴール達成した後も残したいと思っています。

この悩みの足跡、生の声は今しか出てきませんからね。

後で振り返ると必ず美化や脚色が入ってしまうのでね。

「あの時悩んでよかった」みたいな。

 

この「悩みの最中」みたいな感じは、もう後にも先にも書けませんね。

だから貴重なのですよ。

結果を知らないこの苦しみ。

ゴールへ向かっていることはわかっているけれど、いつ実現するのか。

5年後か10年後かはたまた一生かかるか。

「人生変える」と決めてからすでに7年。

今か今かと信じて目の前の作業に取り組むしかない、この感覚。

これは後から振り返った場合、もう書けません。

 

なので、アクセス数が0のうちに、誰も来ないうちに、こういうことは書いておきます。

日記ブログでも何でもいいから。

とにかく書き残しておく。

今はとにかく目の前に現れた事象に対処し、ゴールへの形を作り上げるのみ。

それしか、心を安定させる術はありません。

こういう人生が幸せかどうかは別問題ですが、それは後で評価できるでしょう。

ではまた。